無能な働き者は処刑するしかない

有能な働き者は参謀に、有能な怠け者は司令に、無能な怠け者は兵士に、そして無能な働き者は処刑せよ、という有名な組織論がある。
無能な働き者を処刑しなければならないのは、業務に必要とされる的確な判断力や作業能力が無いのに色々手を出す(そして失敗する)ゆえに、他の従業員の仕事が増え、害となるからだ。

一ヶ月ほど前に入ってきた新人を見て、上記の組織論が幾度も思い出された。
新人(以下A)ははっきり言って、ヤバイ奴である。
職場はシフト制で、私とはあまり勤務時間帯が被らないのだが、その僅かな時間でAの異常性が伝わってきてしまう。

愛想はいい。やる気もある。ただ、優先順位の組み立てが壊滅的に下手で、入って一ヶ月で業務の全てを覚えようとしている。
Aはホール担当なのに、初めて一ヶ月で厨房のことも覚えようとする。
そんなやる気は必要ない。迷惑だ。

物事には順序というものがある。
新人はまず上司に与えられた指示を、ほぼミスなくこなせるようになるのが第一だ。
職場は飲食店なので、まず新人のホール担当は伝票の書き方を覚えて欲しい。それだけでいいのだ。
どこのテーブルに何名様がいらして、オーダーは何がいくつ、そしてその値段はいくらであるか、これらのことを伝票に正確に書ける。
一つのステップをクリアしてから次のステップに行く。小さなステップを少しずつクリアして、人は成長していくのだと私は考えている。 
しかし、Aに私の常識は今のところ通用していない。

実際の業務だけではない。彼女は突然休みたがる。定時の数時間前に退勤したがる。自分は動かず先輩をこき使う。注意をされれば言い訳をする。
これでは駄目だ。成長の見込みがない。
先程業務についてつらつらと書いたが、新人のうちは仕事なんて出来なくたっていい。たくさん失敗したって構わないのだ。誰だってそうだ。
私も今でこそフロアマネージャーだが、お客様にビールや赤ワインやチェイサーの水をぶっかけてしまったことがある。会計ミスで、たった一杯のビールに一万円請求してしまったことがある。

初めのうちは仕事のことなんてどうだっていい。出来なくて当たり前なのだから。
だからこそ、新人は無遅刻無欠席無早退で、先輩からの信頼を築かなければならない。注意を受けたら、どんなに言い分があったとしても素直に聞き謝らなければならない(責任の所在が自分になくとも、社会人になれば他人の代わりに怒られるなんてザラだ)。
それができないなら、辞めてもらうしかない。

私はずっと不安だった。Aのような人間が従業員として許されるのなら、私が今まで頑張り続けた意味がないじゃないかと。私だけでなく、他の従業員のやる気も削がれるであろうことは想像に難くない。
しかし、先日ついに戦力外通告かもねという話が出ていた。Aには申し訳ないが、安心した。
そういったことを容認する組織は腐るだけだ。

私はこのままAが辞めてくれることを願っている。無能な働き者は処刑するしかないのだ。私は無闇に疲れたくない。Aにフロアを教えなくてはならないから、もう随分とシェイカーを振っていないし……。

普通の一日

休みだ。皮膚科が定休日だったので明日行くことにした。

シーツや服をコインランドリーで洗濯した。わざわざ外出したのは、陽の光を浴びる必要性を感じたため。

洗濯中、商店街に行って、素朴な洋食屋さんでハンバーグを食べた。なんの感動もない味がよかった。


いまは乾燥機を回している。その間に薬局に行き、タバコの消臭剤やトリートメントなど必要なものを買い揃える。

乾燥が終わったら、また家に引きこもって横になっているのだろうけど、なにもない一日に何かをした達成感は残ると思う。

休み

明日は一日休みだ。

近所のバーでアレキサンダーとコスモポリタンを飲んできたのでちょっと酔っ払っている。

明日、人と会う予定はないが、皮膚科に行かなければならない。アトピー持ちで、定期的に通院しないと肌が荒れ放題になってしまう。

わたしは皮膚科に行けるだろうか。風呂に入り、化粧をし、二回も電車を乗り換えて、皮膚科に行けるだろうか…鬱病の私は、自分に必要なことすら疎かになりがちだ。

休みたい。一日中寝ていたい。私が病院に行くのではなく、病院が来てほしい。

精神科の予約も入っていたような気がするが、診察券をなくしたので、忘れた。

人と関わること

他人が怖い。他人の目線が怖い。できれば他人の目線から目を逸らして生きていきたい、でもそういうわけにはいかない。だから私は仕事もできて明るくて毎日キラキラ楽しんでいる自分を演じているつもりだった。
でも職場という環境で殆ど毎日顔を突き合わせていたら、私のメッキなんてすぐに剥がれてしまうことがわかった。
人に心を開かない、情緒不安定、その点を指摘されて私は今すぐ消えてしまいたくなった。
仕事はできるのに勿体無いよ、とのこと。そのフィードバックを重く受け止めていたら、そんなに気にすることでもないけどとフォローが入った。
鬱病罹患歴10年の私にとっては充分気にすることだ。
正常になりたくて私はカウンセリングも受けた。認知行動療法も受けた。それでもまだ、私は正常な人間になりきれていない。
こんなの、ただの絶望である。どんなに頑張っても無意味なのか。
まだ電車なのに泣き出したい気持ちでいっぱいだ。
上司からのフィードバックは、お前は異常、精神障害者、そう言われたのと、私の認知では全く同じなのだ。
もちろんそんな意味でないことは分かっている。とはいえ、分かる、というのは理性で、感じるのは感情だ。
私の感情はパニックを起こしている。酒が飲みたい。

日記

夜、カフェバーで働いている。

終電で上がるにしても帰ってくるのはいつもこの時間だ。

酒にしても、咳止めにしても、今日は飲むまい今日は飲むまいと毎日思う。そして、毎日飲んでいる。

現実が鬱だから、躁になりたい。あるいは、自分を痛めつけるのが好きで仕方ない。

咳止めのカフェインで胃はボロボロだし、毎日酒ばかり飲んでいたら肝臓もおかしくなる。おまけにヘビースモーカーで肺は真っ黒、私の内臓年齢はもはや老人と変わりないだろう。


仕事は楽しい。人間関係も良好。なのにこんなに虚しいのは、鬱病だからだろうか。

私はいつも自分のキャパシティを超えて、人の期待に応えようとしている。これを過剰適応という。エヴァンゲリオンのアスカなんかがそう。自分の価値を自分の存在ではなく、付加要素に見出している人が陥りやすい。

いつもいつも過剰適応しているから、常に疲れている。

精神科医に言われて印象的だったのは、「あなたは普通の人が100%の力を出し切っても80%の結果しか出せないところを、120%の力でやって100%やり遂げてしまう」ということ。

なまじ能力があるものだから人に助けを求めない。一人でやれるんだから、一人でやろうとする。私は誰も信頼していない。


酔いが回ってきたのでここまで。

推敲はしたくない。そのときの気持ちを全部書いてしまいたい。